※中高大学校の同級生の皆さんへお願い
私が写っておりますお写真をお持ちでしたら、メール又は郵送にてお写真をお送り下さい。経歴の写真として掲載したいと思ってます。
※Yahoo!のPhotoアルバムサービスを利用して、のぶ☆よしたかのセルフフォトを集めた写真館を作っています。是非そちらもご覧下さい。
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写真館 http://photos.yahoo.co.jp/nobuyoshitaka
1973年
8月
2日 久留米市(
聖マリア病院
)にて生まれる
体重3,800gの健康体で、産まれてすぐひたすら泣き叫ぶ赤ん坊だったらしい。 母は、産まれたのが 14:00 だったので、「とても暑かった」と言っていた。
1976年
4月
聖母幼稚園
入園
久留米市のカソリック系の聖母幼稚園入園。 入園式の記念撮影のとき、私が泣き止まず、母も一緒に記念撮影に入った。
1980年
4月
福岡教育大学附属久留米小学校
入学
小学校当時、桜組と菊組という2クラスしかなく、クラスの名前を他校の生徒に言う のが恥ずかしかったことを覚えている。 この小学校は、文字通り教育大学の附属小学校であり、毎年10月には、12〜3名の教 育実習の先生が来た。いつも決まって、お別れ会の時には、仲良くなった教育実習の 先生との別れをおしみ号泣したものだった。 かの金八先生(武田鉄也)も学生時代に教育実習に来た学校。 (そいう訳でか(?)、私は、今でも、『金八先生』を見ると、演じている中学生の 気持ちになり涙してしまう。) 小学校時代は、「
りんどうヤングラガーズ
」というラクビーチームと「ビーバーズ」 という少年野球チームに所属していた。
1986年
3月
福岡教育大学附属久留米小学校 卒業
4月
福岡教育大学附属久留米中学校
入学
この頃から、徐々に自分の価値観に変化が現れる。人と同じではなく、自分らしくあ りたいと思うようになってきた。学校も真面目に通っていた訳ではなく、いわゆる問 題児だった。「何をしでかすか解らない」という理由で、学校行事の遠足や修学旅行 に参加させてもらえなかった。両親を学校に呼び出せれたのは何回あるか解らない。 当時、村上龍の著作物を読み、彼が育った佐世保という街に興味を持ち、今風に言う とプチ家出をして佐世保に行ったことが懐かしい。(数年前に、衆議院の補欠選挙の 応援で佐世保に行った時、感慨深いものがあった。) 中学生が働くのは、現在でも労働法上違法だと思うが、2年生の夏から町工場で電子 基盤の作製や運搬などの仕事をしながら、貯めたお金でギターを買い、久留米駅近く の木下楽器店のヤマハポピュラーミュージックスクールに通いながら、ギターの練習 に明け暮れる日々だった。
1989年
3月
福岡教育大学附属久留米中学校 卒業
4月
福岡県立明善高等学校
入学
ここのOBには、政界では、故古賀正浩先生、
民主党の古賀一成先生
、
自民党参議院議員の泉信也先生
、白石前久留米市長など錚々たる顔ぶれである。そんな私は、このような先生方と同窓というのを申し訳ないと思うくらいダメな生徒で、卒業するのに最低限度必要な日数位しか行っていない。当時は、アル バイトをしながら音楽に明け暮れ、「体育の時間は好きだ!」という
典型的なデキの悪い生徒
だった。成績も常時、ワースト10には入っていたと思う。毎年、進級が危ぶ まれ、何度も自主退学&通信制高校への転向を勧められたものだった。
高校1年の夏に、国道210号線の
津遊川バス停付近
の工事中、クレーンで吊り上げていた 重さ数百キロの鉄板が落ち、左手の中指を挟み、中指の先端が欠けてしまった時、 音楽をやっていた身としては非常にショックだった。(人間の出会いというのは面白 いもので、その時のバイト先の元社長に、今では、大変お世話になっ ている。ここは、言わば、政治の道への転機の原点。だからこそ、補選の時、この場所での街頭演説だけはこだわりました。)
高校2年の9月に、飲酒運転でバイク事故を起こして、友人の押井君に怪我をさせてし まい、無期停学になってからは、一応、勉強を始めた。(学校には、自転車で溝に落 ちたとか言ったので退学にはならなかった。)当時の先生方、大変ご迷惑をおかけしました。今でも暖かく見守って頂いていること、心より感謝申し上げます。
そんな私も、現在では、活躍する先輩ということで
『明善高校120年記念誌』
に 取り上げられており、大変恐縮している。人生が何が起きるか解らないと思う。
我が母校最大の誇りは、
「克己・尽力・楽天」
という校訓である。この校訓の最後の
「楽天」という言葉
が、今の私の人格形成の一部になっているのは確かである。
1992年
3月
福岡県立明善高等学校 卒業
4月
河合塾福岡校(予備校)
入校
浪人時代が、一番遊んだ時期だと思う。お約束のように福岡の西通りで急性アルコー ル中毒で病院に担ぎこまれた。この時期の経験のお陰で、今日のサラリーマン生活の 中で、お酒とカラオケが苦にならない。当時の河合塾は、個性的な先生が多く、単 に、受験勉強というよりも、社会について色々と考えた時期であった。
1993年
4月
青山学院大学
経営学部経営学科 入学
入学してすぐ、
加藤紘一事務所
のボラン ティアを始める。大学2年の6月からは、加藤の自宅でいわゆる書生として住み込みを していた。書生を始めて、加藤がすぐ政調会長になり、ただひたすら忙しかった。 大学では、
井口典夫教授
を師事し、リスクマネジメントの視点から、トラック業への 参入規制の問題をテーマに研究した。 大学時代に、久留米に帰省した時に、街中を流れる池町川の浄化を訴え、
『池町川の 鯉(恋)を救え!』というチャリティーライブ
を行った。
1997年
3月
青山学院大学経営学部経営学科
卒業
1997年
4月
衆議院議員 加藤紘一 事務所
入所
大学を卒業後は、正式に秘書として事務所に入所。議員会館事務所、個人事務所、宏池会(旧加藤派)事務所に勤務。秘書時代の思い出は、幹事長の秘書として日本全国を廻ったことや、イタリア外遊に随行した時に、作家の塩野七生さんと懇談させて頂いたこと。そして、何より、日本という国が動く力学の、中心に近い部分から世の中を見ることが出来たこと。
2000年11月の「長い長いドラマのはじまりです」という言葉とともに始まった
『加藤政局』
では、秘書としてではなく、一国民として、新しい政治の扉を開きたいと思い、「永田町と国民の距離を縮める」という言葉を信じた。
あの時の経験で、一層、政治の道を目指す気持ちがより強固な ものになった。言わば、私の政治行動の根源とも言える経験。
その後、お詫び行脚企画『加藤紘一がゆく!』を担当し、共に全国を行脚。今でもその時に出会った方々とは、お付き合いをさせて頂いている。
2002年3月の
事務所代表の所得税法違反事件に端を発する一連の事件
では、秘書として、東京地検特捜部(五反田の区検)に呼ばれ、担当検事と、自宅の概念を論争。これまた貴重な経験。同氏の議員辞職にともい退職。
2002年
5月
衆議院議員 山崎 拓 事務所
入所
在京中は、近未来研究会に勤務。帰福後は、南区を担当。毎週、日曜日早朝のソフトボールは、打率はイマイチでしたがいい経験でした。僅かな期間でしたが、福岡2区の有権者の方々と触れ合うなかで、次第に、地域という視点でものを考えるようになりました。今では、長住祭りや、校区の祭りを廻ったのはいい想い出です。柏原の花畑園芸公園入り口にある野球場の駐車場から眺める福岡市の街並みが好きでした。
2002年
8月
同 退所
2002年
10月
衆議院小選挙区福岡6区補欠選挙 出馬 落選。現在に至る。
統一補選 衆院福岡6区 関連記事(西日本新聞)
2003年
7月
渋谷・青山まちづくり研究会 理事
まちづくりを支援するためのボランティア団体(非営利団体)である「渋谷・青山まちづくり研究会」理事として、渋谷区・港区を中心とした山手市街地の活性化を図ることを目的に、アカデミックな観点から地域全体の利益に資する政策を立案・提言に参画。
http://www.machiken.com/
7月
TEAM HAMANO(浜野総合研究所)客員研究員
ライフスタイルプロデューサーの浜野安宏 氏のもと、「楽しい地球」「おもしろい街」「きもちのいい生活」をコンセプトに掲げるteamhamanoの客員研究員として、21世紀の新しい価値観やライフスタイル、民間の視点での街づくりを研究・調査。尚、浜野氏は、70年代の「サイケ文化」のファッション界元凶の革命児として知られ、「東急ハンズ」「神戸ポートアイランド」「横浜みなとみらい21」「渋谷QFRONT」等、業態、建設、都市など多彩 なプロデュース活動に携わる。福岡では、「ベイサイドプレイス博多埠頭」プロデュースや「博多キャナルシティ」初期コンセプトプランの作成で知られる。
http://www.teamhamano.com/
2004年
9月
株式会社 船井財産コンサルタンツ
http://www.funai-zc.co.jp/
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