▼ 環境保護=革新=左という固定概念からの脱却
昨今、政治や行政の潮流として、長野県の脱ダム宣言などの環境に配慮したあり方が模索されている。私は、21世紀の我が国の大きな課題が、環境問題への取り組みであると思う。現在、研究が進められている、脱化石燃料開発や、バイオ技術による水や土壌、空気の浄化。これらは、嘗て、「発展=生産=消費」という考え方に基づき、戦後復興に取組んできた我が国が、各種公害問題などの反省にたち、これから発展を遂げていくだろう諸外国に対しての責任とリーダーシップを取る領域であるし、環境立国として我が国は世界の中で主要な役割を担うはずである。
しかし、この国で「環境」という言葉を用いた時、取り分け、政治サイドの人間が用いた場合、極めて、先入観を持って受け止められることがある。それは、タイトルにも示したような固定概念に基づくものである。例えば、前述の、治水上、よほどのことが無い限りにおいての脱ダム的行政を行う場合、その裏側には、山林や田畑が持つ、自然の治水機能の維持・促進という考え方が存在する。換言すれば、中山間地農業や国土保全のための林業などに対しての補助は、何らかの基準を持ってして認めなければならない。つまり、単純な、費用対効果という考え方で割り切ることが出来ないという考え方が存在するはずだ。
正直、私自身が、どうすれば環境という概念と、保守という日本人の志向性とが共存するかという答えを見出してはいないが、環境=革新という固定概念が、まずは、議論の入り口を狭めて、この日本の将来の可能性を狭めている一因になっているのではないかと思う。
この国には天然資源がない。しかし、何よりの資源は人である。我が国が21世紀を生き残っていくためには、まず、科学技術による知的財産権の集積、新技術を用いた製造業は勿論のこと、同様に環境や医療による産業立国、また、化石燃料ではない新エネルギーの開発等を国策として取組まなければならない。
そして、何よりも重要なことが、20世紀とは違う、環境と共存していく新しい価値観やライフスタイルを国が明確に打ち出し、世界に主張することである。また、そのことは、同時に、最大の資源である「人」を創っていくことにも他ならない。そのためには、勿論、教育に資本を集中させるしかない。
話が逸れたが、環境という言葉が、政治的な先入観なく受け止められるためには、まず、どうしたらいいものであろうか。保守というのが急激な変化を好まないのであれば、歴史的に、自然環境と共生してきた我が国では、「私は、自民党支持です。何故なら、環境が重要です」。こんな言葉が出てきても、本来はおかしくないはずなのだが。そのためには、何らかの知恵とスパイスを用いて、もう少し脳で汗をかくことが必要である。